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信州とアート

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浮世絵に見る江戸の暮らし

  江戸名所百人美女木母寺  江戸名所百人美女 木母寺


右 左の画面左上の木母寺
の部分を拡大したもの。ここ
の部分は国久が描いている
ことがわかる。

江戸名所百人美女 木母寺と隅田川(浮世絵美術 北枝 展示より)
木母寺と梅若伝説
「江戸名所百人美女 木母寺」にある木母寺は、現在も隅田川左岸の東京都墨田区堤通2丁目にあります「梅柳山木母寺」です。最初は墨田院梅若寺と号していましたが、徳川家康によって梅柳山の山号があたえられ、前関白近衛信という人が梅の字を木と母にわけ木母寺としたとされています。 このお寺に伝わる「梅若権現御縁起」には、「梅若伝説」の主人公「梅若丸」を供養した庵がこのお寺の起源とされております。境内には「梅若塚」がのこっており、毎年新暦の四月十五日は梅若忌が催され謡曲が奉納されます。今の場所は昭和五十一年に移されていますが、元の場所は梅若公園となっていて、梅若塚の石碑がたっています。周辺は都営住宅で、この公園から木母寺に抜ける通路は門のような構造になっていて「梅若門」の名がつけられ子供たちの通学路にもなっているようです。
梅若伝説とは
平安の中ごろ、京都北白川の吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘・花御前との間には梅若丸という男の子がいました。五歳の時、父と死別した梅若丸は比叡山月林寺には入り、彼ほどの稚児はいないとの賞賛をうけます。これに妬んだ松若という稚児のいる東門院の法師達におそわれた梅若丸は山中をさまよったのち、大津の浜で信夫の藤太という人買いに会い、奥州に売られます。途中、梅若丸は隅田川のほりで病にたおれ置き去りされますが里人の看病むなしく貞元元年三月十五日 十二歳で帰らぬひととなります。たまたま来あわせた忠円阿闍梨が里人と墓をたて柳を植えたといいます。 一年後、息子の失踪に狂女となった母親が我が子をさがして隅田川を渡ろうとすると対岸の柳のしたで大勢の人が念仏をとなえています。船頭に一年前に病でたおれた梅若丸という十二歳の男の子いたことを聞きます。里人とともに母親が菩提をとむらうと梅若丸が霊として現れ一時の再開を果たしますが消えてしまいます。 塚のそばに庵をたて母親もそこでくらしますが、悲しみにかてず浅茅池に身をなげます。不思議にも亀が遺体を乗せて浮かびあがり、母親は妙亀大明神としてまつられ、梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。
隅田川と歌舞伎の世界
「江戸名所百人美女 木母寺」に描かれたように江戸の人々にとって川遊びは大変人気がありました。春は花見で隅田川堤は桜の名所で船からの花見も人気がありました。六月を過ぎると暑くなり、涼を求める人が大川端へ出かけ船での夕涼みをしました。大川というのは江戸時代の両国橋付近の隅田川の名称です。東岸を隅田川堤西岸を大川端といいました。そして両国の花火がおこなわれました。秋には船からの月見そして冬には雪見と四季を通じて川遊びがさかんでした。特に隅田川の雪見は有名です。東岸の浅草 猿若町には江戸三座といわれる中村座・市村座・河原崎座など歌舞伎小屋があり、芝居見物も隅田川を船で渡ってくる人も多かったようです。
隅田川のエリアは単に遊びのスポットというよりも当時の文化流行の発信地のであったようです。謡曲「隅田川」は「梅若伝説」を題材としています。また歌舞伎の外題でも「梅若伝説」を題材としたものも多くあります。このストーリーが人気が高かったせいか隅田川の世界とほかの世界をまぜあわせた物語がたくさんつくられました。これらの作品を「隅田川物」といいます。近松門左衛門の「雙生(ふたご)隅田川」では吉田家のお家騒動が主なストーリーで梅若と松若は兄弟となっています。ここでは隅田川に人買い猿島惣太に梅若がころされることになっています。「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」は吉田家再興をねがう松若丸の物語で、これをじゃまをする「法界坊」の場面が有名です。「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」は吉田家の桜姫に清水寺の僧清玄が恋焦がれ堕落していく様、お家復興を願う桜姫の生き様がストーリーとなっています。この清玄を尼にしたのが「隅田川花御所染(すみがわはなごしょぞめ)」です。
現代でも大河ドラマのロケ地や縁の土地に人気が高かったり、トレンディードラマの主人公のライフスタイルに共感する人がいるように、当時の隅田川も人気のドラマのスポットだったのでしょうか。 将軍の侍医だった桂川甫周の娘で今泉みねというひとが若いころの思い出をつづった「名ごりのゆめ」には、当時の「すみだ川の水は真底きれいで水晶をとかしたとでも申しましょうか(中略)、すみだ川の四季折々のながめはほしいままでした。」としている。また芝居見物といえば「絵巻物を繰り広げるようなきもちで、あのころの芝居のことがおもいだされます。(下略)」と書いてあります。
主催者後記
信州に住む私にとって、「川の水が水晶をとかしたようだ」という表現はよくわかります。 とくに上高地をながれる梓川などは、水がとてもきれいです。江戸のころの隅田川の両岸は葛飾 北斎の浮世絵などをみても自然公園のような感じです。ヨーロッパやロシアなど絵画のような都市 景観がありますが、当時の隅田川エリアは、当時の江戸の人々の生活文化を含め、芸術的な空 間だったのかもしれません。 水がきれいなことも偶然ではなく、当時の人々の生活習慣にて自然に、そして完璧なまでのリサ イクルがおこなわれていたおもえるからです。  「江戸名所百人美女 木母寺」に描かれているように、自然と親しむ遊びが若い世代でも最先端 の流行だったことがわかります。
それにしても、若い町娘がこのような船を使うことができたのでしょうか、意外とリッチだったのしょ うか。
歌舞伎小屋の桟敷席(舞台はよく見えないが、花道をとおして桝席から見える)には、ご自慢の着 物で着飾った町娘がいて話題になったとあります。こういう町娘が浮世絵に登場しているのでしょうか。
歌舞伎のストーリーなどみても性格はストレートでアクティブな生き方のようです。