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浮世絵とジャポニスム

17世紀頃より、ヨーロッパに東洋の文化が入ってきました。 18世紀の中頃になると、イギリスでは中国風の庭園が流行しました。この背景にはシノワズリーといった文化の流れがあります。 中国の絵画、工芸品や陶磁器などが入ってきて、徐々にヨーロッパ伝統的な様式に影響をあたえてきました。

  この頃の陶磁器には中国の景徳鎮などにかわって日本の伊万里焼きが多く輸入されました。その後、多くの日本の美術品が輸入され、絵画のみならず、デザインや建築、モードなど多くの分野でヨーロッパ伝統的な様式に影響をあたえました。この文化の流れを一般にフランス語の「ジャポニスム」といっています。

 この影響は現在の様々な分野に残っています。 特に浮世絵は中国などにはない日本独自の芸術です。ヨーロッパなどは芸術至上主義なので、このような芸術絵画が一般の庶民(市民)が多く所有していたこと自体が当時としては世界でも稀に見ることでした。 浮世絵に描かれた日本(江戸)の建物や工芸品、着物、人物、風景などのモチーフ、デザインや構図などは当時のヨーロッパにはないものでした。 また、印象派の画家の中には、当時の日本(江戸)の社会制度やライフスタイルとそれを支える思想を研究し、実践を試みた人たちもいたようです。

 では、いつごろから浮世絵はヨーロッパに渡ったのでしょうか。 1826年に江戸にも行っていたドイツ人医師シーボルトは葛飾北斎に傾倒し、肉筆画を依頼しています。シーボルトの浮世絵コレクションは現在オランダやフランスのパリにあります。

 その頃の江戸といえば、1794年に東洲斎写楽が出ています。1804年には喜多川歌麿が投獄され1806年になくなっています。 葛飾北斎の『北斎漫画』は1814年に初編が刊行されています。歌川派の創始者歌川豊春も1770年代にはすでに活動しています。

 1850年代にはパリでは日本美術を扱う店が開かれロンドンでは展示会が開かれていたようです。サウスケンジントン博物館(現在のヴィクトリア=アルバート博物館)が日本美術の展示を始めたのは1854年です。 しかし、1700年前後には伊万里焼きが本格的に輸出されていますので、この包装紙に浮世絵が使われたたこともありますので、浮世絵がヨーロッパの人々の目にとまったのは1800年以前のことかもしれません。

  浮世絵をはじめ日本(江戸)の美術工芸品の流入を一変させたのは万国博覧会です。 万国博覧会は1851年にロンドンで最初に開かれました。1850年から1900年までの50年間は新しい工業製品のアイデアがたくさん生まれた時期でもあります。1851年のロンドン万国博覧会では鉄とガラスでできた建築(通称水晶宮といわれる)ができました。1867年のパリ万国博覧会ではファクシミリの原型や、水圧式エレベーターなど展示されています。1878年のパリ万国博覧会ではトーマス・エジソンの蓄音機や自動車、自由の女神像の頭部などが出品されました。1889年のパリ万国博覧会ではエッフェル塔が建設され、1900年のパリ万国博覧会では地下鉄や動く歩道が建設されました。

 20世紀の近代化、都市化に貢献したアイデアがたくさん生まれたことは、ジャポニスムと無縁ではないでしょう。産業革命で工業製品が生産されるようになったのですが、その品質は当初はひどいものでした。デザインという言葉もこの頃出ています。 ビジュアルデザインはトゥールーズ=ロートレックのポスターのように印刷物などで市中に出て行きました。デザイナーが設計したものを製品にするためのインダストリアルデザインもジャポニスムの時代にうまれました。

 美術商サミュエル ビング(Samuel Bing)がパリにオープンした商店の名称がもとになった「アールヌーボー」 ・「アールデコ」といった 新しい芸術様式も生まれています。 いずれも、浮世絵に描かれた江戸の工芸品にあふれていた生活があこがれのライフスタイルとなっていたからなのです。当時の万国博覧会では工芸品も多く出品されていました。1867年のパリ万国博覧会に日本からはじめて参加しています。江戸幕府と薩摩藩と対抗した形で参加しています。ここで出品された浮世絵や江戸の工芸品は人々の熱狂的な支持をうけています。

 デザインブランドで有名なバカラは1867年と1878年のパリ万国博覧会では、グランプリを獲得していますが、そのホームページで1878年にはジャポニスムという新しいデザインがうまれたとしています。

 

 パリ万国博覧会

 
  国際的な万国博覧会は1851年ロンドンで開かれた。展示館にはジョセフ・パクストンが設計した鉄とガラスでできた通称「水晶宮」(温室建築)が建設されました。 以後、パリ・ニューヨークやロンドンなどで開催されました。明治期に出品された浮世絵はジャポニスムを形成させました。

  パリ万国博覧会(Expositions universelles de Paris)は、フランスの首都であるパリで開催された国際博覧会のこと。

  第1回  1855年5月15日-11月15日  25ヶ国参加 516万人が来場。

  第2回 1867年4月1日-11月3日 日本が初めて国際博覧会に出展(幕府、薩摩藩、佐賀藩)。 ルイヴィトン銅賞受賞 エルメス銀賞 42ヶ国が参加、1500万人が来場。

 第3回 1878年5月1日-11月10日 トーマス・エジソンの蓄音機や自動車、自由の女神像の頭部などが出品された。 林忠正通訳として参加 香蘭社金賞受賞 日本は1878年、江戸幕府や薩摩藩などが出品した1867年に次ぐ、2度目の公式参加をした。 明治政府や美術商による版画・漆器・屏風・刀の鍔(つば)のほかにも、ギメなどのコレクターも所蔵品を出品。Gazette des Beaux-Artsをはじめとする美術雑誌や日刊紙は、当時万博のために建てられた日本館の描写、 日本の歴史・文化・美術に関する記事を掲載。紙面からは、当時フランスにとって、日本が開国してまもない「未知の国」であったことが伝わってくる。日本人、日本家屋・建築、工芸品・美術品への驚異、関心が示されている。 この1878年、林忠正はパリへ渡り、万博会場で通訳を務めた。フランスに住むことを決意し、美術商とし て1905年まで滞在。作家 エドモン・ド・ゴンクール(弟のジュールは1870年に死去)やギメと知り合い、多くの作家・美術批評家の執筆活動に貢献した。また、モネやドガなどと友好を深め、19世紀末のフランス 絵画に代表される印象派に影響を与えた。 36ヶ国が参加、1616万人が来場。 バカラは1867年と1878年のパリ万国博覧会では、グランプリを獲得1878年にはジャポニスム エルメスグランプリ

  第4回 1889年5月5日-10月31日 フランス革命100周年記念。エッフェル塔が建設された。イルミネーションが行われた。 ルイ・ヴィトングランプリ 35ヶ国が参加、3225万人が来場。 

 第5回 1900年4月15日-11月12日 法隆寺風日本館設置 地下鉄や動く歩道が建設された 4700万人が来場。 1925年に現代装飾美術工芸博覧会(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)、  いわゆるアー ル・デコ博。 以後 1931年 パリ植民地博覧会( 1931年5月23日-?) 1937年5月25日-11月25日、   1947年7月20日-8月17日 に開催されています。

 

 林忠正

 
  嘉永6年(1853)11月7日〜明治39年(1906)4月10日 林忠正は現在富山県高岡市にあたる高岡一番町の蘭方医者・長崎言定の二男に生まれました。幼名を重次(志藝二)といいます。

 のちに富山藩大参事・林太仲(忠敏)の養嗣子となり、林忠正と名乗ります。 上京し大学南校(現東大)でフランス語を学びます。 明治11年(1878)、大学を中退しパリ万博の通訳として渡仏。起立工商パリ支店に入社しました。起立商工社の若井兼三郎に誘われ、日本の美術品を扱う仕事をするようになりました。同16年(1883)に独立しパリに日本美術品店を開き、日本の美術工芸品や浮世絵などを大量に輸出しました。

 フランスのみならずヨーロッパのジャポニザンたちと交遊し、日本美術研究者や印象派の画家らに多大な影響を与えています。 日本美術を研究していたエドモンド・ゴンクールが、日本の美術を紹介してフランスに日本美術ブームを引き起こすきっかけとなった重要な作品「北斎」(1891-96)を執筆するにあたり、日本の書を調べるなどして協力するなど、当時ヨーロッパで巻き起こっていたジャポニスム(日本ブーム)の"発信源"として活躍しました。それはのちにアールヌーボーの成立につながっていくことになります。 その一方で、印象派の絵画を初めて日本に紹介するなど、西洋美術の普及に尽力しました。 (2005年)